Sunday, May 30, 2010

夢物語

1.山菜採りに出掛けて、生えていた腕や脚を刈る夢。

2.日本語を話す中国人が古くからの友人だという釧路の人間に裏切られたと滔々と訴えている夢。

3.頭前半分が禿げ、後ろが落武者のような長髪で白髪…そして自分が「禿げで白髪!」と繰り返し叫んでいる夢。
いづれも心当たりはない…夢は不思議だ。でも、神経細胞が勝手にそう発火しただけで、意味はない。こんなことに意味を求めてしまうと、きっと予言だとか、宗教だとかに繋がるんでしょうね。

Saturday, May 15, 2010

ひろゆき・勝間討論に思う


 本日、立て続けに、JMMのレポータ、冷泉 彰彦氏の"from 911/USAレポート "で「勝間=ひろゆき対談をアメリから見ると」、神戸大学教授岩田健太郎氏のブログで「ひろゆきvs勝間に思う」という記事を目にしたので、思うところを記してみる。お二方の記事のうち、前者では、討論が噛み合わなかったことの原因に日本でのコミュニケーションが相対的な上下関係を織り込むことで成立していることを挙げ、そこから自由になるために匿名文化が必然的に醸成されてきた可能性を指摘している。そう考えると、先の討論で実名を主張する勝間氏が「上から目線で言われているような気がする」と表明した姿が、カナヅチが浮き輪禁止を主張しているようで滑稽に思える。後者の岩田先生は、彼女の前提条件を「出羽の守」の誤謬と看破している。勝間氏の主張は、合衆国のプールでは、浮き輪の使用率が低いので、日本でも浮き輪の使用率を下げなければならないという主張と同値なのでした。

 私が二人の討論を見て一番興味を惹かれたのは、あんなに意見がすれ違った二人とも自分を幸福だと表明した事実です。お二人ともマスメディアを通じて見る限り不幸せではないでしょう。それでも、可能性としては、実際に幸せだと感じていて幸せと表明する場合と実際は不幸せだと感じているのに幸せだと表明する場合がありえるでしょう。我が家で言えば、夫婦二人ですが、世間から見れば十分幸せでしょう。私は幸せですが、人から訊かれれば幸せと言っていいのかどうか分かりません。常々病気の方と接しているせいか、例えて言えば、飢えた人の前でマックを食べて旨いとは言いがたい感覚です。妻はと言えば、私の甲斐性がなく、あんまり幸せだとは感じてはいないようです。でも人に訊かれれば、幸せと答えるのではないのでしょうか、見栄っ張りなところがありますから。つまり、他者の視線、自分の感覚、その表象で「幸せ」は異なるのです。幸せになりたければ、幸せだって思い込むか、自分が思う幸せを実現するしかないわけですね。個人個人の感覚なんかは千差万別だし、その表現のしかたは文化、時代によって異なるし、そんな曖昧な幸福を測って議論することに意味ないというのが、私の立場です。アングロサクソンが考えたGDPに代わる「幸福度指数」とかに踊らされて、税金の無駄遣いをされるのはまっぴらゴメン。経済的余裕のある人が直接余裕のない人を援助できるベーシックインカム制度、教育や医療の機会の平等が実現されれば、私も堂々と幸せですと言えるような気がするのです。